考えごとノート。

日本が多様性に寛容な社会になるために、世界一多様な都市トロントに留学している教育者の卵です。Teacher candidate/ DIversity education/ Canada / Study abroad

物の見方

日本の外に出てから自分がどう教育を見るか、視点が大分変わったように思うし、日本で大学四年生までは本当に狭い世界でしか教育を見れていなかったなと振り返ると感じる。

バイアスというのは自分じゃ気が付かない時があって、故に取り除けない時がある。でもその偏った見方のせいで本質的な問題や根幹にある概念にブラインドが掛かって突破口が見えないことって本当に良くある。

 

留学の良い所は、自分や世間の当たり前と全く違う世界に物理的に来れることだとつくづく思う。全く違う意見を持つ人と話をすることで常識を疑い、相違点からメリットデメリットの整理ができるからだ。

例えば昨日、日本のとある小学校のいじめ防止対策書に「わかる授業・できる授業」という項目を発見した。久しぶりに聞いたフレーズすぎて、最初は「できる授業」と「いじめ防止」になんの関係性があるのか一瞬戸惑った。

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「わかる授業・できる授業」

よく考えれば、大学四年生の時には頻繁に聞いていた言葉であった。恐らくこの小学校の意図は、できる授業を通して子供達の自己肯定感を高めることにあるのだと思う。日本にいた時はあ〜〜そうだなって、納得していた。自己肯定感が高まれば子供の精神状態落ち着くんだろうなと。

でも今カナダで半年近く教育学部の授業を取ってから「わかる授業」と「いじめ防止」の関連性を見ると何か残念な様に思う。そこじゃなくない?!って。

 

私の今の考えは

「人は好奇心から学びが始まること」

失敗や間違いが学びの種であること」

「自分と他者は同じ所もあれば違う所もあること」

粘り強さの必要性」

こんなアイディアから来ている。

わかる授業って、言い換えると先生がレールを引いた上で全員(大半)が失敗せずに何かを「達成」する錯覚を得る授業なんじゃないかって思ってしまう。

みんながわかる授業って、表面で終わらない?

分からないから質問して、クラスで意見出し合って、他の人の考えを聞いて自分の考えを深めるんじゃないの?失敗を笑わないで、粘り強く考える資質を養う方が学びの質の向上や人間としての成長に繋がらないかな。

 

だから理想論なのかもしれないけど今の私は「わかる授業」がいじめ対策の項目になるのは本質的に違うと思う。私がやるなら「間違いや失敗を認め合い、学ぶ態度の育成」に注力する。

間違いから学ぶんだから、失敗をこの世の終わりだとか、恥だとか捉えてしまうアイディアを無しにしたい。分かんないことを流してしまう事や分かったふりをすることの方がタチが悪い。失敗間違い学びの報告タイム、的なの帰りの会に作りたいくらい。(ちなみに実際失敗したときは脳細胞が活性化されて脳の成長につながるとの実証があるそう。)

 

こういうクリティカルな視点を得られたのは、カナダに来たから。違う価値観の場所で対話をしたから。

でも怖いのは、日本に帰ったらまた日本のコンテクストで自分の考えが再形成されてしまうのではないかという思い。

本当にクリティカルであるための思考回路はトレーニングしないといけないなと思ってる。一時的な異なる物の見方で終わらせないために、いつだって他方を俯瞰できる自分でありたい。