考えごとノート。

日本が多様性に寛容な社会になるために、世界一多様な都市トロントに留学している教育者の卵です。Teacher candidate/ DIversity education/ Canada / Study abroad

我爱你

私がまだこんなちんちくりんの頃の話である。
私は一年間中国に住んでいた。

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(これはその後日本に帰ってからの写真)

マンダリン(北京・標準語)、上海語、日本語のトリリンガルだった私と弟。
しかし22歳の今、私は日本語と英語を話している。
あんなにペラペラと話していた中国語はすっぽりと消えて何処かへ行ってしまったのである。こんなことがあり得るか、結論から言うとあり得るのである。

でも今私は再度中国語を勉強しようとしている。
そのモチベーションはいたってシンプル。
父親のバックグラウンド、文化を理解することで父に恩返ししたい

ハーフが「ギフト」であることを認識できるようになってから、私はどうにかして中国人であるアイデンティティやバックグラウンドに関心を持つ、知ることを心がけてきた。しかし、メディアでは日中関係のことばかり。誰かが誰かを批判している映像を見るだけでは分かりきらないものがある。

ここからが本題。
私のyeye(父方のおじいちゃん)に電話する機会があったから、私も話しなよ!と電話を譲ってもらえた。
前置きをすると、yeyeは日本語は話せない。
私が中国語を忘れてからというもの、yeyeとは会話ができていない。それも高校2年生の時に中国に私が行った時もそう。とにかく話せていないのだ。

覚えたての中国語で言えることは、私はヨーク大学の学生です、のみ(笑)
これをyeyeに伝えたところでどうにもならないんだけど、流れで言ってみることに。発音は本当に難しいからきっと聞きづらかったと思う。けど、「我是約克大学的学生」だけ頑張って行ってみた。

そしたら、「だいがくせい?」と、日本で返事が返ってきたのだ。
通じたことの嬉しさ。yeyeが日本語でレスポンスしてくれた喜び。
全てがどわっと流れてきてきて感情が抑えられなくてつい涙。(笑)

中国語の授業本当に難しいけど、ああ頑張らなくちゃと思った瞬間だった。
自分のやってきたことがここにつながって、本当に嬉しかった。

実を言うと、母方のおじいちゃんは私が高校生の時に亡くなった。
大好きなおじいちゃんのことは今でも考えただけで目頭が熱くなる。
病気になってからというもの、佳月が受験勉強に向かっていたせいで、あまり時間を取って話せなかった。おじいちゃんは私のことをいつだって大切にしてくれていたのを知っていたからこそ、亡くなった時には「もっとおじいちゃんと話したかった、こうしてあげたかった」と思うことも多かった。

yeyeは元気だ。私が早く中国語を学んで、自分の言葉で何かを伝えられるようになりたい。会話がしたい。おじいちゃんにしてあげられなかったことをまた繰り返して後悔したくない。

爷爷我爱你